伊東豊雄の建築作品10選!経歴やスゴイ受賞歴と大三島での活動や著書と建築塾とは?【SWITCHインタビュー】

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世界的建築家の伊東豊雄さんが

SWITCHインタビューに登場!

代表建築作品10選を紹介!

経歴との死別…

「建築界のノーベル賞」など

輝かしい受賞歴

現在の大三島での活動や

人気の著書子ども建築塾とは?

など調べてみました。

こんにちは、サイト管理人の007です。

今回注目したのは、この番組♪

2018年11月10日(土)22:00~放送

SWITCHインタビュー 達人達(たち)

「伊東豊雄×小松義夫」

番組放送内容はコチラ(^^)/

人にとって理想の住環境とは?世界的な建築家・伊東豊雄が、瀬戸内海の島で始めたチャレンジについて、世界中の「家」を撮影する写真家・小松義夫と語り合う。

「建築家のための建築」ではなく、住む人が心身ともに心地よいと感じる建築を追い求める伊東。愛媛県の大三島で住民と一体になった取り組みをしている。自ら手がけた、島の自然や歴史と調和した建築について小松の感想を尋ねた。その小松が撮影した世界各地の家の写真は、バラエティに富む建築様式と生き生きした住人の表情が収められている。瀬戸内海の美しい海と夕景をバックにした2人の会話は終わりなく続く。

引用:SWITCHインタビュー 公式サイト

2020東京五輪のメインスタジアムとなる

新国立競技場の公募にエントリーした

2015年には、隈研吾さんとの一騎打ちで

巷にいろいろ物議を醸しだしましたね~

ともあれ、2013年「建築界のノーベル賞」

米プリツカー賞を受賞した国際的建築家の

伊東豊雄さんがとても気になります(^^)/

ということで、007ミッション開始!

伊東豊雄の建築作品10選!

経歴やスゴイ受賞歴と

大三島での活動や

著書と建築塾とは?

実は東京大学を卒業されていて超秀才

伊東豊雄さんは、革命的ともいわれる

素晴らしい建築作品を数々残していて

その活躍は日本にとどまりませんが

いったい、どんなお方なのでしょうか…

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【目 次】

1.伊東豊雄さんの経歴(プロフィール)

2.伊東豊雄さんの妻との悲しい死別

3.輝かしい受賞歴と人気の著書!

4.伊東豊雄さんの私塾・子ども建築塾とは?

5.伊東豊雄さんの代表建築作品10選を紹介♪

1.伊東豊雄さんの経歴(プロフィール)

名前:伊東豊雄(いとうとよお)

生年月日:1941年6月1日

現年齢:77歳(2018年11月現在)

出身地:京城府(現大韓民国ソウル市)

学歴(高校):東京都立日比谷高等学校

学歴(大学):東京大学工学部建築学科

伊東豊雄さんは、1941年(昭和16年)

父親が商社に勤めていた関係で、日本

統治時代の朝鮮京畿道京城府(現在の

韓国ソウル特別市)で誕生しました。

日本に引き揚げたのは、伊東豊雄さんが

1歳半の時で、京城時代の記憶はなく

中学生まで、祖父と父の郷里である

長野県諏訪郡下諏訪町で過ごします。

父親は、終戦直前に命からがら帰国し

景気に左右されない商売を考えて

信州味噌の製造業を興したんだとか…。

そのため、戦後の貧しい時代でも

比較的恵まれた環境で育ちますが

父親は小学校6年の時に亡くなって

しまったそうです。

野球少年だった伊東豊雄さんは、幼い

ころから文武両道で、成績もずば抜けて

良かったんだそうです。

本人曰く「できれば前に出たくないと

いつも思っていた」そうですが、否応なしに

目立つ存在で、中学生時代は生徒会長にも

祭り上げられたんだとか…。

そんな伊東豊雄さんを見込んで、東京の

高校に進学するようアドバイスしたのは

野球部の顧問でもあった担任教師でした。

これを機に、母親は味噌屋の商売を義兄

夫婦に任せ「東京で子育てをする」

母親と一緒に中学3年の6月に上京。

大森第六中学校に編入した当初はなんと

成績はガタ落ち、神童伝説も崩壊した

そうですが、目標として進学校である

日比谷高校を受験するつもりだったので

好きな野球は一旦中断、勉強に集中したら

成績順位1桁にはもっていけたという…

スゴイエピソードがありました♪

そして無事に、当時の東大進学率が最も

高かった日比谷高校に進学し“落ち着いた”

伊東豊雄さんは、野球を再開します。

楽しい学生時代を過ごしつつも優秀だった

コトから、自然な成り行きで東大受験

目指すわけですが、見事に受験失敗!

浪人生活に入ったのですが、この頃から

視力がだいぶ落ちてきて、野球が厳しく

なってきた伊東豊雄さん。

結局、野球をあきらめることにし

「将来はエンジニアかなぁ」くらいの

軽い考えで、2度目の受験で理Iに合格。

仲間と草野球をやったり、適当に遊んだり

ごくごく普通の大学生で専攻を決める段に

なると、あまり成績がよくなかったそうで…

伊東豊雄さんには、電気や機械工学など

手が届かなくなっていて仕方なく、残された

選択肢の中から選んだのが、なんと当時

「工学部の落ちこぼれ」といわれていた

建築学科だったんだというコトですから

まったくもって運命って驚きですよね~。

当時のコトを、あるインタビューで

こんな風に笑顔で話しておられました♪

なんといっても、建築に対する知識もほとんどないまま……その程度の話で
ほんといい加減に生きていました(笑)。

ただ、丹下健三さんが代々木のオリンピック体育館をつくっていたし、メタボリストたちがデビューした時期で、建築がクローズアップされ始めた時代ではありました。大学の設計好きの仲間と親しくなるうちに、僕は少しずつ建築に対して興味を持つようになったのです。新しい建築や未来都市の夢を、次々と提案していくメタボリストたちの仕事や論理に触れ、憧れ、次第に意匠系に傾倒していった感じですね。

なんでしょうか、本物の天才というのは

挫折も楽しんでしまうような、そんな

並外れた感性をお持ちなんでしょうか…

そして伊東豊雄さんが大学4年生の夏

「人生が決定づけられた」という

出来事が起こったんです!

そのころ、若き旗手として世間から注目を

浴びていた菊竹清訓(きくたけ・きよのり)

建築設計事務所でアルバイトをしたことで

「ようやく、本気でエンジンがかかった」

といわしめる、鬼気迫るような設計の現場

伊東豊雄さんを魅了したんだそうです。

設計がまとまりかけた段階になっても、菊竹さんは突然、「これじゃダメだ!」とぶち壊したりする。それまで徹夜を重ねてきたスタッフは、呆然状態。そんなことが、しょっちゅうです。

「こんなエネルギーでものをつくっていくんだ」――狂気ともいえるような迫力でした。大学で学んでいるうちは理論前提で、建築は頭で考えるものだと思っていましたが、そうではなく身体全体で考えるもの。建築が本当に面白いと思わせてくれたのは、間違いなく菊竹さんです。1カ月のアルバイトを終えた日に、「来春からここに来ていいですか」と聞いたら、その場で「いいよ」と。僕にとっては幸せな出会いでした。

1965年に東京大学工学部建築学科を

卒業後「菊竹清訓建築設計事務所」

入所され、建築家として晴れてデビュー!

入所してからは、3日に1度は事務所に

泊まり込む生活で、土日もなし。生涯で

一番働いた?時期を過ごす伊東豊雄さん。

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燃え尽きたのか、4年後の1969年、何の

アテもない状態で事務所を辞めてしばらく

「ぶらぶらしていた」が1971年、自身が

30歳の時、アーバンロボットURBOTを設立

(79年、伊東豊雄建築設計事務所に改称)

この頃も、実は志があったというよりも

「自分でやるしかないなぁ」という風な

成行き的な独立だったということでした…。

ちょうどこの頃、下諏訪で味噌屋を営む

義兄夫婦が、店を畳んで上京することになり

東京での住居と、義兄が新しい商売のために

建てる小さなビルを設計したんだそうです。

家のほうは「お前の好きにつくっていい。

その代わり設計料はなし」ビルはその逆で

「設計料は払うから、要望どおりにつくって」

そんな交換条件で建築したこの時の住宅が

「アルミの家」で、独立第1号の仕事でした。

そして、義兄のビルの一角を間借りして

事務所を構えた伊東豊雄さんですが、もう

食うや食わずで「手伝わせてください」

来てくれたスタッフにも、給料なんて全く

払えない状態だったそうです。

親戚、友人の住宅を細々とやりながら…

3カ月先までは持つが、その先は見えない

という状態が長らく続きました。

しかし、80年代半ばからは、世間がいわゆる

バブル景気となり、商業建築など少しずつ

仕事も広がりを見せてきた伊東豊雄さん。

『White U』や自邸『シルバーハット』など

個人住宅を中心に手がけ、安価かつ禁欲的で

ミニマルな作風で注目を浴びました。

また、消費社会に暮らし、物だけでなく

生活空間まで消費する若い女性ら都市の

「遊牧民」(ノマド)をテーマに

「東京遊牧少女の包(パオ)」といった

プロジェクトを発表するなど、体を柔らかい

膜のように包む建築などを構想し、都市を

批評する活動を行っていました。

1986年、横浜駅西口に作ったシンボルタワー兼

地下街換気塔「風の塔」は、無数の穴を開けた

金属板(パンチメタル)と照明多数で構成された

半透明な簡素な塔であるが、夜間は風などの

周囲の気象条件に合わせて表面にカラフルな

光が浮かび上がるようプログラミングされており

金属板の斬新な使用方法や環境に対する

相互作用性で注目を浴びています(^^)/

そして、以降の大きな足掛かりになった作品が

1991年に発表された公共建築第1号となる

「八代市立博物館未来の森ミュージアム」

なんと、すでに50歳になっていた

伊東豊雄さん遅咲きの大躍進はこれを

きっかけに始まるコトになりました。

この博物館は、表現が「非常に新しい」

評価されたが、展示そのものが弱くて

「楽しい博物館だね」という評価には

ならなかったんだそうです。

そこで伊東豊雄さんは、新しさ、楽しさ

かたちの問題ではなく、建築家が社会に対し

「人々のためにこういう場を」と提案する

こと、それが公共建築の一番の難しさで

面白さであると考えるようになったそうです。

その後「せんだいメディアテーク」を建築し

最大の転機を迎える仕事を成し遂げます!

図書館やギャラリーなど、4つの機能を複合

させることから始まった施設ですが、コンペに

勝ったあと、コンペ審査員と、自治体の考えに

大きなギャップがあったことに気づき…

最初は衝突の連続で、根気よくギャップを

埋めていく作業を続けるなか、一つ一つを

共に考えながら解決していったんだそうです。

この過程で、考え方が大きく変わったという

伊東豊雄さんは、どこかで「俺の設計が一番だ!」

と思っていたのが、市民や様々な関係者と議論し

「その声を組み込んだほうが面白いものができる」

「建築は社会に役立つべきもの」と、その本質が

見えてきたんだと語っておられます。

以降、伊東豊雄さんの建築は大きく変化し

こだわってきた軽快さや抽象性よりも

「強さ」「楽しさ」といった人間の持つ

生命力をストレートに表現するスタイルに…

それは、近代建築からの脱却でもあり

1990年代に入り「せんだいメディアテーク」

代表として、次第に構造上でも実験的かつ

官能的な外観・内部空間を有する作風に移る。

いつしか、伊東豊雄さんは、新建築誌上で

槇文彦さんから「平和な時代の野武士たち」

呼ばれた世代の筆頭となりました。

2006年には、王立英国建築家協会よりRIBA

ゴールドメダルを受賞するなど、世界でも

重要な建築家の一人とみなされるように…

2013年は、とうとう「建築界のノーベル賞」

プリツカー賞を受賞し、設計する建築のための

家具の設計も行っており、後進の建築家を多く

輩出する教育者としても高い評価を得ています。

2015年、新国立競技場「基本構想国際デザイン

コンクール」2012年の仕切り直しとなった

再コンペに参加し、明治神宮外苑という

立地を踏まえ神道を意識した作品で臨んだが

審査の評価点では「工期短縮」部分で

27点の大差をつけられたこともあり

「総合」で8点の僅差で敗れ採用に

至らなかった伊東豊雄さん。

しかし、敗因となった 「工期短縮」部分で

A案の36ヵ月に対し伊東らB案は34ヵ月で

勝っていたことが判明し話題になりました。

他にも、伊東豊雄さんは、東京大学・東北大学

多摩美術大学・神戸芸術工科大学で客員教授

歴任されており…。

2013年度プリツカー賞以外にも、高松宮

殿下記念世界文化賞、UIAゴールドメダル

日本建築学会賞作品賞2度、グッドデザイン

大賞など受賞歴も多数の素晴らしい功績。

(詳細は後述しています) 

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2.伊東豊雄さんの妻との悲しい死別

さて、伊東豊雄さんですが、ご結婚されて

いた奥さまが、とんでもない才女

とても素敵な女性だったことが判明!

元NHK理事の伊東律子さんという方♪

東京都生まれで、1967年早稲田大学卒で

NHKに入局、「NHK特集」でNHK女性

制作者初の海外取材番組を制作。

1986年には報道局解説委員、1994年

福島放送局長、番組制作局長などを経て

2001年、女性初の理事という輝かしい

経歴の持ち主で伝説のワ−キングウーマン!

だったのですが、残念なことに卵巣癌

2009年12月17日、東京都内の病院で

享年66歳でお亡くなりになられました。

NHK初の女性理事というコトで、女性

ディレクターたちにとっては最高の手本

みなの憧れの存在だった伊東律子さん。

今は亡き森瑤子さんとも親しかったそうで

今から20年以上も前に、この先の理想の

女性像を「ハンサムウーマン」

(coolでsmartな女性)と称した時には

NHKでこのハンサムウーマンをテーマに

女性の新しい生き方を探る番組を制作

されたのも、奥さまの伊東律子さんでした。

葬儀の際にはこんな記事がありました。

式場となった西麻布の寺の広い境内に、人があふれていた。祭壇にはみごとな胡蝶蘭が所狭しとびっしり並べられ、そのちょうどまんなかで美貌の伊東さんが微笑んでいた。
仕事柄、著名人のも含めさまざまの葬儀に参列してきたが、少なくとも、NHK職員のものとしてはこれ以上盛大な葬儀を見たことがない。

いつも泰然としていて、カッコよくて

リーダーシップに長けていた男前の女性

だったことがわかるエピソードですね。

伊東律子さんこそ、ハンサムウーマン

そのものだったんでしょうね~。

少し、話が脱線してしまうのですが

NHKの『公共放送』としてのイメージを

大きく傷つけたとある事件…。

問題となっている番組で、当時チーフ

プロデューサーだった永田浩三さんが

書いた本(柏書房、2010年10月出版)

『NHK、鉄の沈黙はだれのために

―― 番組改変事件10年目の告白』

この本には、伊東律子局長の思い出もいろいろ、書かれているが、彼女自身この事件で『板挟み』になり深く苦しんだのであろうと、想像させるような記述ばかりであった。

この著書に、伊東律子さんの死についても

記述があるそうですので、興味のある方は

ご一読してみては?

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3.輝かしい受賞歴と人気の著書!

さて、今では世界的に有名な伊東豊雄さん!

輝かしい、主な受賞歴は?というと…

1984 日本建築家協会JIA新人賞(笠間の家)

1986 日本建築学会賞作品賞(シルバーハット)

1990 村野藤吾賞(サッポロビール北海道ゲストハウス)

1991 毎日芸術賞(八代市立博物館・未来の森ミュージアム)

1992 毎日芸術賞(八代市立博物館

1993 BCS賞(八代市立博物館・未来の森ミュージアム)

1994 日本建築学会北海道支部北海道建築賞(ホテルP)

1997 ブルガリア・ソフィア・トリエンナーレグランプリ
BCS賞(八代広域行政事務組合消防本部庁舎)

1998 芸術選奨文部大臣賞(大館樹海ドーム)

1999 日本芸術院賞(大館樹海ドーム)

2000 国際建築アカデミー(IAA)アカデミシアン賞
アメリカ芸術文化アカデミー アーノルド W.ブルーナー賞

2001 グッドデザイン大賞(せんだいメディアテーク)

2002 World Architecture Awards Best Building(せんだいメディアテーク)
BCS賞(せんだいメディアテーク)
ヴェネツィア・ビエンナーレ「金獅子賞」

2003 日本建築学会賞作品賞(せんだいメディアテーク)

2004 金のコンパス賞(Compasso d’Oro ADI) (木製ベンチ”ripples”)

2006 王立英国建築家協会(RIBA)ロイヤルゴールドメダル受賞
公共建築賞 国土交通大臣表彰 (せんだいメディアテーク)

2008 金のコンパス賞(Compasso d’Oro ADI)(HORM社のブースデザイン)
オーストリア・フレデリック・キースラー建築芸術賞
BCS賞(瞑想の森 市営斎場)

2009 マドリード美術協会(CBA)金メダル

2010 2009年度朝日賞
第22回高松宮殿下記念世界文化賞

2012 ヴェネツィア・ビエンナーレ「金獅子賞」(コミッショナーを務めた日本館が受賞)

2013 プリツカー建築賞

2016 日本建築学会賞大賞

2017 村野藤吾賞(台中国家歌劇院)
UIAゴールドメダル

007(管理人)が勝手にチョイスした

面白そうだな~と思ったおススメ本!

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また、伊東豊雄さんの建築事務所出身

建築家の方々も、とてもご活躍されて

いらっしゃっるので、一挙ご紹介♪

石田敏明 – 1973~81年、所員。建築士、前橋工科大学大学院教授。
妹島和世 – 1981~87年、所員。建築士、慶應義塾大学教授。
城戸崎和佐 – 1985~93年、所員。建築士、京都工芸繊維大学准教授。
曽我部昌史 – 1988~94年、所員。建築士、神奈川大学大学院教授。
ヨコミゾマコト – 1988~2000年、所員。建築士、東京藝術大学大学院准教授。
アストリッド・クライン – 1988~90年、所員。建築士。
佐藤光彦 – 1986~92年、所員。建築士、日本大学大学院教授。
福島加津也 – 1994~02年、所員。建築士。
松原弘典 – 1997~01年、所員。建築士、慶應義塾大学准教授。
平田晃久 – 1997~05年、所員。建築士。
中山英之 – 2000~07年、所員。建築士。
末光弘和 – 2001~06年、所員。建築士。
白川在 – 2001~06年、所員。建築士。
篠崎弘之 – 2002~09年、所員。建築士。
岡野道子 – 2005~15年、所員。建築士、芝浦工業大学特任准教授。

素晴らしいですよね(^^)/

他にも、後進育成の活動に熱く取り組む

伊東豊雄さんのプロジェクトはというと…

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4.伊東豊雄さんの私塾・子ども建築塾とは?

2011年、事務所設立周年の節目に

伊東豊雄さんは、後進の育成のために

私塾を立ち上げられました。

その矢先、東日本大震災が起き、塾生らと

共に被災地に通いながら「これからの建築」

考えながら、志ある建築家たちと、被災者の

ための「みんなの家」プロジェクトを展開。

復興活動に力を注ぎながら、今また新たな

ステージに立っているという伊東豊雄さんは

こんな風に語っておられました。

これからの人生で一番やりたいのは、若い人を育てること。人々のために、社会のために、建築はどうあるべきかを考える人材です。そして理想的には、近代建築のセオリーから解き放たれた「21世紀の建築原理」をつくり上げていきたい。まだまだ、走り続けないといけませんね。

2007年、ところミュージアム大三島

アネックスの設計を依頼され、敷地調査で

初めて大三島を訪問した伊東豊雄さん。

大三島は、13 地区に 6,400 人が暮らす

過疎の島で、大山祇神社で知られるが

商業や産業の面では、ほとんど開発

されていない島でした。

大三島の人口は、1940年~50年代の

ピーク時に比べて、今や半分に減少し

65歳以上が人口の50%を占めるとか…。

伊東豊雄さんは「みんなの家」で学んだ

草の根のコミュニティへの貢献における

教訓を活かした取り組みを開始します!

自身の第二の建築人生を、この島の

失われた活力を取り戻す活動にも

捧げる!と決意されたそうです。

「日本一美しい島・大三島をつくろう

プロジェクト」と名付け、島にある

伝統をもとに少しずつ計画を進め

移住者の誘致へつなげるんだとか…

「スローフード」ならぬ「スロー建築」で

現地調達の材料や素材を使用し、地元に

ある手段を用いて何かを作り出すという

発想は、とても凡人にはできませんね~

興味のある方は、ボランティアなどで

参加できる活動や講演などもあるよう

ですのでいちど足を運んでみては?

また、今年はもう終わってしまいますが

子どもたちの建築や町に対する意識を

高め、思考や表現の個性を伸ばすという

「子ども建築塾」も大好評のようです!

2019年度の子ども建築塾は、2月頃

募集されるようですよ(^_-)-☆

2018年の実施内容や料金

開講日数
全20回、2期制(前期10回 / 後期10回)
隔週土曜日14:00~16:00 開講
※都合により、曜日・開講時間を変更する場合がございます。

受講対象
小学校高学年(4年〜6年)の児童

定員
20名
※定員を超えるご応募があった場合は、模擬授業による選考を行わせていただきます。
※模擬授業では、約1時間半の間、出題されたテーマの「いえ」のスケッチを描きながら、講師が個別に対話を行います。

受講料
年間110,000円(月額10,000円×10ヶ月、模型材料費10,000円 / 年)
※教材費、見学費を含みます。通塾にかかる交通費、特別授業にかかる参加費・交通費は、別途ご負担ください。
※前期分として4月末までに60,000円、後期分として9月末までに50,000円ずつ納入していただきます。

2018年「こども建築塾」カリキュラム

小学校高学年の児童を対象に、一年を通して建築やまち、環境について考えます。
前期は「いえ」をテーマに、住宅のスケールや模型のつくり方、発表の仕方などを学びながら、想像力あふれる「いえ」を設計します。これまでには「自然のようないえ」や「好きな素材でつくるいえ」といった課題が出題されました。今年は「動物と一緒にくらすいえ」をテーマに、様々な環境で生息する動物と人が一緒に楽しくくらせるいえを設計します。建築のかたち、空間、機能、スケールを学びながら、わくわくするような「いえ」を考えます。
後期は「まち」をテーマに、都内のまちを皆で歩きながら、まちの成り立ちや公共空間、ランドスケープについて考えます。今年は恵比寿周辺を流れる渋谷川沿いを舞台に「まちの建築」を設計し、最終的にはみんなでひとつのまちなみを完成させます。まちの歴史や文化、地形や環境をふまえた上で、人が集まることによって生まれるにぎわい、まち全体のつながりなど、広い視野から建築を考えます。

とっても面白そうですよね~♪

対象年齢のご両親は、可能なら

お子さんたちの才能を開花させる

きっかけになるかもしれませんね。

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5.伊東豊雄さんの代表建築作品10選を紹介♪

それでは最後に、007(管理人)の

厳選した、伊東豊雄さんのおススメ

代表建築作品10選をご紹介します♪

1.自邸「シルバーハット」

2「風の塔」

3「八代市立博物館未来の森ミュージアム」

4「せんだいメディアテーク」

5「まつもと市民芸術館」

6「多摩美術大学図書館」

7「トーレス・ポルタ・フィラ」(スペイン)

8「高雄ワールドゲームズメインスタジアム」(台湾)

9「今治市伊東豊雄建築ミュージアム」

10「台中国家歌劇院」(台湾)

今回は、外観のみのご紹介ですが

中に入らないと、その本物の良さ

わかりませんので、機会があれば

ぜひ足を運んでみてくださいね(^^)/

007ミッション報告

日本で有名な建築家というと、とかく

安藤忠雄さんが取りざたされていますが

建築界のノーベル賞と言われている

プリツカー賞も受賞した世界的に有名な

建築家の伊東豊雄さんの方が実はスゴイ!

内部の柱をなくし、曲面や周囲の環境を

生かした建築が特徴で、国内外の様々な

建築物を手掛けていますしそれよりも

育てた弟子の活躍が安藤さんの比ではない!

今後もご活躍を期待してやみません♪

今回の記事は、このブログを始めて

最長の記事になってしまいました(;^_^A

最後までお読みいただきまして

ありがとうございます(^^)/

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